足元に鍵を投げた客がいた

気づき

足元に、鍵が落ちた。

運転席を降りてくる客に向かって、俺は歩いていた。鍵をもらおうと手を出しかけた、その瞬間だ。そいつは鍵を投げた。俺の足元に。放り投げた、という感じじゃない。わざと狙って落とした。「拾え」ということだ。

一瞬、固まった。

それから、屈んで拾った。何も言わなかった。そのまま給油を続けた。

怒りはなかった。正確に言えば、怒りより先に戸惑いが来た。こういうとき、どうすればいいのか。何を言えばいいのか。俺には答えがなかった。

なんで黙ってたんだろう

上司にも同僚にも言わなかった。今になって考えると、なんでだろう。言い返すぐらい、すればよかった。「それはないんじゃないですか」の一言ぐらい言えた。

当時の俺は何を考えていたのか。正直わからない。

たぶん「我慢するのが仕事だ」と思い込んでいた。昭和の現場にはそういう空気があった。客が横柄でも飲み込む。文句は言わない。働く者の姿とはそういうものだと、どこかで刷り込まれていた。

でも今になって思う。あれは我慢じゃなかった。ただの戸惑いだった。

そいつは役場の職員だった

後で聞いた話だが、そいつは町長のお抱え運転手だったらしい。役場の職員だ。

たぶん上には頭が上がらない立場だったんだろう。偉い人の後ろをついて歩いて、荷物を持って、気を使い続けて。その鬱憤を、スタンドの若造にぶつけた。

知ったこっちゃないが、弱い者いじめもいいとこだ。

俺はそう見ている。確かなことは知らん。でも俺の目には、そう映った。

変な客はほかにもいた

給油口にノズルが入るか入らないかというぐらい顔を近づけてくるおばさんがいた。危ないからやめてくれと言えない雰囲気で、毎回ヒヤヒヤしていた。

もっと図々しいのもいた。常連でもない客が、なんの断りもなく事務所に入ってきて「お茶」と言った。一言だ。「お茶、くれ」でもない。「お茶」だ。どこの何様か知らないが、スタンドをどういう場所だと思っているのか。俺は外から見ていただけで、事務員のお姉さんが対応していた。お姉さんが動いて、俺は突っ立っていた。そのときも、何も言えなかった。

鍵の客だけが特別だったわけじゃない。あの頃の現場には、そういう空気があった。

あのとき、言えばよかった

給油が終わってから、頭の中でいろいろ考えた。「なんでそんなことするんですか」と文句を言う。事務所の裏に連れて行く。運転席に水をこぼす。次来たときに鍵を投げ返す。全部、頭の中だけの話だ。実際には何もしなかった。

俺の方が浅はかだったかもしれない。仕返しを妄想するぐらいなら、その場で一言言えばよかった。言える立場にあったのに、黙っていたのは俺自身の選択だった。

ああはならなかった

あの運転手が今どこにいるか知らない。俺への謝罪もなかった。

ただ一つだけ確かなことがある。ガソリンスタンドで働いた5年間、俺は鍵を誰かの足元に投げたことは一度もなかった。それだけは言えるじゃねーか。

ま、それだけのことだが。

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