野球を見ていると、誰もが一度はこう思ったことがあるでしょう。
――「今のは完璧な当たりなのに、なぜ野手の正面に飛んでしまうんだ?」
バットの芯でとらえ、手のひらに残るあの気持ちいい痺れ。音も角度も、打った本人には“いった”と分かる手応え。それなのにボールは、まるで磁石に吸い寄せられるみたいに守備の正面へと滑り込んでいく。これが一度なら「今日は運がない」で片づけられます。でも、同じことが二度、三度と続くと、「見えない力が働いているのでは?」とさえ感じてしまう。私はこの感じを、ずっと「偶然の連鎖=必然のような現象」と呼びたくなります。
偶然の重なりが“必然”に見える瞬間
表面だけ見れば、ぜんぶ偶然の集合です。
投手が投げた球。打者のスイング。守備の位置取り。――どれもそれぞれ独立した動作。誰かが「正面に飛ばせ」と命じているわけでも、糸で引っ張っているわけでもない。
それでも、こういうことが起きるのかもしれません。
- 投手の配球が、知らず知らずのうちに打者を特定のコース・スイングへ“誘い込む”。
- 打者の体は本能で最短距離を走り、いちばん気持ちよく振れる角度で“いい当たり”を選んでしまう。
- 守備の位置は、データや経験、当日の打球感覚が混ざり合った“その日その時の立ち位置”に決まっている。
この小さな符合がカチッと噛み合うと、結果だけ見れば“必然だったかのように”正面へ飛ぶ。誰も打ち合わせていないのに、なぜかピースが揃ってしまう。私はそんなふうに感じています。
もう少し言えば、ボールの回転や打球の出どころ、打者の体の開き具合、守備側の一歩目の癖――そういう微細な要素が、日によって“同じ方向”を向くことがあるのではないか。理屈で測り切る前に、身体が先に選んでしまう。だからこそ、狙って再現するのは難しいのに、起きるときはなぜか続く。これが私のいう「偶然の連鎖」です。
卓球やテニスに見る「返す本能」
この現象は野球だけの話ではない気がします。卓球やテニスで、相手の打球を“返そう”とする瞬間、体は反射でラケットを出します。意識で細かく角度を計算する前に、本能が先に動いてしまう。すると、ときどき信じられないタイミングでネットインしたり、エッジに当たったりする。狙ってできるものではないのに、起きるときはなぜか連続する。
野球の守備にも似た景色があると思います。スタートの一歩、腰の向き、グラブを出す高さ――最終的には「感覚」や「経験値」によるものが大きい。その無意識の選択が、打者の本能的なスイングと偶然ぴたりと符合したとき、ボールは“吸い込まれるように”正面へ。私はそんなふうに想像します。
「正面の日」にどう向き合うか
では、こういう日に打者はどうするのか。私は「良いスイングが出ているなら、その事実を信用する」ほうが好きです。結果は正面でも、内容が保たれているなら、どこかで連鎖はほどける。同じフォーム、同じ間合い、同じ見送り。焦っていじるほど、せっかくの“芯”がぼやけていくからです。
逆に、結果だけを追ってフォームを小刻みに変え始めると、今度は“悪い連鎖”が始まることがある。芯を外した当たりが偶然ヒットになり、「これで正解か?」と迷いが混ざる。私は、正面アウトが続く日こそ“淡々と芯を通す練習日”だと捉え直したい派です。ベンチに戻る足取りは軽く、打席では欲張らず、走塁は全力で。目の前の一球にだけ責任を持つ。やることは単純で、でも案外むずかしい。
人生に重ねてみると
人生にも「偶然の連鎖」はある気がします。たまたま開いた本、たまたま受けた誘い、たまたま座った席。いくつかの“たまたま”が重なると、後から振り返って「必然だった」と思える転機になる。逆に、やることは間違っていないのに結果がついてこない「正面の日」もある。メールの返信タイミングがズレる、交通が微妙に噛み合わない、機械が続けて不調――そんな日。
そこで私たちにできることは多くないのかもしれません。でも、まったく無力でもない。フォームを乱さず、姿勢を保ち、声を荒げず、淡々と“芯を通す”。すると、どこかで糸がほどける瞬間が来る。偶然の束がゆるみ、同じ行いが「あっさり抜ける」番に変わる。私はそんな“番の巡り”を信じたい。
おわりに
「流れ」や「運」という言葉の中には、単なる偶然もあれば、人の本能どうしが引き合って起こる符合もある。野球で言えば、打球が正面に飛ぶあの瞬間。あれはただの不運ではなく、小さな偶然がきれいに重なった結果――そう考えると、見え方が少し変わります。
偶然をコントロールすることはできません。でも、偶然に出会ったときの態度は選べる。正面アウトの打席でさえ、次の一本につながる“芯の確認”だと思えたなら、もう半分は勝っている。今日の連鎖がほどける明日のために、同じフォームで、同じ一歩目で、また打席に立つ。それがきっと、私の野球であり、私の毎日です。
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