導入:愛は国境を越えるけど、お墓は越えられない?
夫婦の宗教が違う──恋愛の時は「国も宗教も超えて、愛があれば大丈夫」なんて言うけれど、現実はそう甘くない。
死んだ後に待っているのは「この宗派専用ですから、他宗教の方はお断り」という冷たい石の壁。役所の婚姻届よりも不親切な対応だ。
「愛は永遠」なんて言うけれど、日本のお墓事情では“永遠”どころか「永代供養30年プラン」なんて期限付きの永遠が用意されている。愛より契約書が強い国、それがニッポンである。
お墓問題:子どもに残すのは愛情か、土地代か
昔は「墓を建てること」が親孝行だった。けれど今やそれは「子どもへの負担」を押し付ける手段に近い。
- 墓の土地代は高い
- 管理費も毎年かかる
- 継ぐ子どもがいなければ“無縁墓”行き
こうして「親孝行=墓守り」という構図は、時代錯誤のビジネスモデルになりつつある。
最近は樹木葬や散骨が人気なのも当然だろう。海に散骨すれば、子どもは墓参りで渋滞に巻き込まれる必要もなくなるし、管理費の請求書も届かない。むしろ「墓を作らなかった親の方が、最後まで優しかった」と感謝されるかもしれない。
葬儀問題:誰のための儀式?
葬儀だって同じだ。
宗教が違う夫婦の場合、葬儀は「どっちの宗教でやるか」でもめることがある。でも冷静に考えてほしい。葬儀は“故人のため”と言いながら、実際は“参列者のためのセレモニー”ではないか。
豪華な祭壇に高額な花。泣いているのは喪主の財布ばかり、なんて冗談もある。
一方で、無宗教葬や家族葬なら、形式に縛られず“その人らしさ”で見送れる。音楽を流したり、思い出の写真を飾ったり。案外、宗教の違いよりも「参列者の目」の方が厄介な宗派なのかもしれない。
まとめ:墓と葬儀に“皮肉”を
宗教が違う夫婦のお墓・葬儀問題。真面目に考えれば頭が痛いが、皮肉を交えて眺めると滑稽でもある。
- 愛は国境を超えるけど、お墓は宗派を超えられない
- 永代供養は“永代”じゃなく“契約期間つき”
- 子どもに残すのは墓石より自由の方が喜ばれる
本当に大切なのは、墓の形でも葬儀の形式でもなく、「残された家族が困らないこと」だろう。
もし迷ったら、いっそ海に散骨してしまえばいい。海は宗派も国境も問わない。
最後にたどり着く場所は、意外にもいちばん自由な“自然”なのかもしれない。
皮肉っぽく書いてきましたが、これは私が実際に墓を建ててみて「やっぱり無駄だな」と感じた正直な感想です。お墓を持つことを否定するつもりはなく、価値観は人それぞれ。私の“墓から学んだ感覚”として受け取っていただければ幸いです。
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