散歩を3年続けて気づいたこと
気づけば、もう3年ほど毎日散歩を続けている。最初のきっかけは健康のため。ところが今では、歩くと頭がスッキリするような感覚を求めて外に出る。特別なことを考えているわけでもない。ただ、歩き終えると心の中のノイズが減り、頭の中が澄んでいくような感じがある。この静けさが心地よくて、気づけば日課になっていた。
「ランナーズハイ」という言葉を聞いたことがある。ジョギングを続けたとき、βエンドルフィンやアナンダミドが分泌され、多幸感に包まれる現象だという。いわば“脳内麻薬”のような状態。だからこそ、「散歩ではそんな感覚は味わえないだろう」と思っていた。
けれど、3年も歩いていると分かってくる。たしかに走る人のような強烈な高揚感はないが、代わりに「静かな心地よさ」がある。風の音や足音に意識が向き、ふと考えごとが消える瞬間がある。あのスッキリ感は、まさに心のリセットに近い。
犬の散歩では味わいにくい「無の時間」
犬と散歩する人を見ると少しうらやましい。相棒がいれば続けやすそうにも見える。だが実際に一緒に歩くと、犬が立ち止まったり、他の犬に興奮したりして、なかなか自分のペースで歩けない。犬の散歩は「犬のための時間」になりがちで、自分の心を静める“無の時間”にはなりにくい。犬は好きだが、やはり一人で歩くほうが、自分の内側と向き合える。ひとりの散歩は、静かな瞑想に近い。
散歩で分泌される“静かな幸せホルモン”
調べてみると、散歩でもセロトニンという神経伝達物質が分泌されるという。セロトニンは思考を落ち着かせ、気分を安定させる働きがある。走る人が「快感の高まり」で整うなら、歩く人は「静けさ」で整う。どちらも心を軽くしてくれるが、散歩は持続する安定感が特徴だ。
三日坊主でもいい。“三日”は脳の助走期間
最近、プレイグラムタイピングという練習を始めたが、三日で止まった。典型的な三日坊主。それでも思う。三日続けた時点で、もう“始めた人”の仲間入りではないか。
人の脳は新しいことに抵抗を示す。変化を危険と判断してブレーキをかけるのだ。だから最初の三日は、脳が「本当にこれを続けていいのか」と試している期間。この壁を越えると、脳が慣れ始めて“自然にやる”状態に変わっていく。三日間続けると、昨日より正確に打てた、少し速くなった――そんな小さな成功がドーパミンという報酬を生み、「もう少しやろうかな」と思わせる。つまり「三日やると続く」は根性論ではなく脳の仕組みだ。
二週間で習慣になる。自分のリズムで続ける
行動科学では、「二週間続けると習慣になる」とも言われている。最初の二週間は意識してやる期間だが、それを越えると脳が“これが日常だ”と受け入れる。歯を磨くように、散歩も自然と体が動くようになる。
思えば、私が散歩を続けてこられたのも、たぶん自分の性分が関係しているのだろう。一度「やる」と決めたことは、派手ではないけれど静かに続けてしまう。とはいえ、無理はしない。嫌ならやらない。そのバランス感覚が、結果として続ける力になったのかもしれない。名前をつけて説明する必要はない。ただ、そういう気質が自分の中にある――それだけのことだ。
おまけ:習慣のスイッチは二週間
よく「二週間続けると習慣になる」と言われる。脳は最初のうち抵抗するが、同じ時間帯・同じ行動をくり返すうちに“これは日常の一部”と認識する。最初の二週間だけは少し意識して、それ以降はペースに身を任せる。私はこの切り替わりを何度か経験した。散歩もそうだし、ときどき再開するタイピングもそうだ。コツは、うまくいかない日があっても「今日は短め」で済ませて、流れを切らないこと。
おわりに――理由はいらない。「気分がいい」がすべて
散歩もタイピングも、結局は気分がいい/機嫌がいいから続くのだと思う。理由を探すより、その感覚を大切にするほうが自然だ。三日でも、二週間でも、三年でもいい。自分が心地よく続けられるリズムこそ、本当の“習慣”なのだろう。
たぶん、それが自分の性分なんだと思う。
理屈じゃなく、ただ気分がいいから――気づけば続いている。


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