俺はメジャーリーグの試合をよくテレビで観ている。
メジャーの試合は早朝や午前中に行われることが多いから、時間が合えばリアルタイムで、難しいときは録画やスポーツニュースで追いかける。ポストシーズンに入ってからは特に注目度が高く、毎試合、画面の前に座るのが習慣になった。
ただ、観ていてずっと引っかかっていることがある。
ひとつやふたつじゃない。三つある。
一つ目:グラウンドに唾を吐くシーン
メジャーの試合中に、選手が当然のように唾を吐く。マウンドの上だけじゃない。ベンチの前でも、ライン際でも、外野の芝の上でも。
俺は中学の三年間、野球をやっていた。ポジションはセンターかレフト、打順は三番か五番か六番のどれか。ミートはうまかった――と、自分では思っていた。
その三年間で、グラウンドの所作は体に叩き込まれた。
整列して礼をする。グラウンドに足を踏み入れるときは帽子を取る。マウンドへ向かう投手は、ファウルラインを踏まずにまたぐ。守備に就くときも、ベンチに戻るときも、ラインを踏まない。
ライン一本にすら敬意を払う。グラウンドという場所には、どこか「神聖さ」のようなものがある――そう体で覚えた。
だからこそ、メジャーで選手が当然のように唾を吐くシーンには、どうしても違和感を覚えてしまう。
ラインをまたいで敬意を示す文化と、ラインの上で平気で唾を吐く文化。同じグラウンドを、別の感覚で使っている。
アメリカの野球では、唾を吐く行為自体がマナー違反ではないらしい。ガムやひまわりの種を噛む習慣、噛みタバコの名残、緊張をほぐす仕草――そうした背景があるとは聞く。
だが、文化の説明を聞いてもなお、引っかかる。理屈で納得するのと、体が受け入れるのは別なんだろう。
二つ目:「滑るボール」という言葉
もうひとつ気になっていることがある。
メジャーに渡った日本人投手たちが、口を揃えて言う言葉だ。
――滑る。
メジャーのボールは、日本のものよりわずかに大きく、重く、そして滑りやすいという。だが本質はサイズや重さではないらしい。
指にかからない感覚。
リリースの瞬間、縫い目や革に指先が引っかからず、ボールが抜けてしまう。このわずかな違和感が、回転、制球、そして身体にまで影響する。
俺自身はメジャーのボールを握ったことがない。だから、本当のところはわからない。
調べてみると、軟式野球で、雨の日にゴロを取って投げるときの、あの「ボールが指に乗ってこない」感じに似ているらしい――という話が出てきた。曖昧な情報で恐縮だが、それくらいしか想像のしようがない。
ある名投手は、メジャー移籍後「ボールが滑るため、強く握るしかなかった」と語っていた。その握りの変化が肘への負担となり、故障につながったとも聞く。
別の投手は、滑る特性を受け入れ、変化球の幅として活かした。
また別の選手は、滑るボール前提で握り、フォーム、回転、すべてを組み直したという。
同じ「滑る」でも、答えは三者三様だ。
身体を壊した人。適応した人。武器に変えた人。
三つ目:笑顔で談笑する選手たち
最後の引っかかりは、これだ。
メジャーの試合を観ていると、ヒットで塁に出た打者と、相手チームの内野手が、笑顔で何かしゃべっている。試合中に、だ。
日本の野球では、考えられない光景だ。
俺もテレビを観ながら、つい思った。
「よくあんなに集中力を切り替えられるなあ」と。
最初は正直、「緊張感がないな」とすら感じてしまった。
だが、よく考えてみると――俺たちの時代の野球は、まったく逆だった。
笑うな。歯を見せるな。水を飲むな。試合や練習の合間に泳ぐな。罰のような兎跳び。先輩からの「指導」という名のいじめ。
そんな野球しか、俺は知らない。
職場に出てからも、同じだった。製造現場では私語厳禁。会話は隠れてするものだった。
つまり、俺たちは「抑圧されている状態」を「真剣にやっている」と取り違えて生きてきた、ということなのかもしれない。
神聖さの裏側にあったもの
ここで、正直に書いておかないといけないことがある。
「グラウンドの神聖さ」と書いた。「ライン一本にすら敬意を払う」と書いた。
それは、嘘じゃない。
でも、その「神聖さ」の裏側には、別の現実があった。
たかが一年か二年早く生まれただけで威張り散らす先輩。理不尽な上下関係。「指導」という名前で行われた暴力。あの三年間、何度「こんな野球、やらなきゃよかった」と思ったか分からない。
スパイクは学校の持ち物だった。自分のものじゃない。グラウンド整備のトンボも、まともになかったような気がする。それが当時の現実だ。
「神聖さ」を体に染み込ませたのは、たぶん本当に美しい所作だけじゃない。
挨拶を強制される空気。ライン一本に敬意を払う形式。それを破ったときに飛んでくる怒声。そうしたものが全部混ざって、俺の中に残っている。
それでも、体は覚えている
不思議なものだ。
「やらなきゃよかった」とまで思った野球の所作が、何十年経っても体に染みついている。
メジャーの選手が唾を吐けば、引っかかる。
ラインをまたいで歩く投手の姿を見れば、ほっとする。
談笑する選手を見れば、違和感を覚える。
頭では「向こうにはそれなりの理由がある」と分かっている。
それでも、体は別の答えを返してくる。
抑圧されて覚えた所作も、強制されて覚えた敬意も、結局は俺の一部になってしまっている。それが、いいことなのか悪いことなのか――今でも、よく分からない。
違和感は、悪いことじゃない
ただ、違和感を覚えること自体が悪いとは思わない。
観ているからこそ、引っかかる。
やっていたからこそ、気づく。
強いられたからこそ、両面が見える。
何も感じなくなったら、それはもう、ただ画面を眺めているだけになる。
唾も、滑るボールも、談笑する選手も――俺がメジャーを真剣に観ているからこそ、目に留まる。
そして、引っかかった瞬間に、自分が何を体に背負ってきたのかが、ふと見えたりする。
あなたは、何かを観ていて「引っかかる」ことがあるだろうか。
その引っかかりを、辿ったことがあるだろうか。
引っかかりの向こう側には、自分が生きてきた時代と、強いられてきたものが、案外しれっと並んでいるものだ。
おまけ:もう一本、書いた話
同じく野球を観ていて、もう一本、別の角度から書いた記事がある。「投げるな」と言われ続けたある若い投手の姿に、「いい会社に入れ」とだけ教わって育った俺たちの世代を重ねた話だ。よかったら、こちらも読んでみてほしい。


