期待を背負った瞬間、人は自分でいられなくなる

違和感

人生で、あれほど心が制御できなくなった経験は、後にも先にもあの一度きりだ。

国家試験の前から、ずっと落ち着かなかった。
胸の奥が熱く、頭の中がざわざわしている。
「慌てるな」「焦るな」と何度も自分に言い聞かせたが、まったく効かなかった。
むしろ抑えようとするほど、内側から“かーっ”と何かが噴き上がってくる感覚だけが強くなっていった。

試験会場に入っても、その状態は変わらなかった。

人生で一度だけ、心が制御できなくなった試験

周りの受験者が、やけに落ち着いて見えた。
みんな自分より優秀に見える。
冷静に考えれば、そんなはずはない。
でも、そのときの視界には「できる人間」しか映らなかった。

そして、「はじめ!」の合図。

なぜか、問題用紙ではなく、後ろを見てしまった。
後ろの受験者が、黙々と集中しているように見えた。
その姿が、異様に優秀そうに感じられた。

「あ、俺もやらなきゃ」

今思えば、何を人のことを気にしているんだ、という話だ。
試験は自分との勝負なのに。
でも、あの瞬間の自分は、もう自分の世界にいなかった。

国家試験というより、「期待を背負う二週間」だった

その試験は、ただの国家試験ではなかった。

零細企業で、実務をほぼ一人で回している状況だった。
会社は無理をして時間をつくり、金をかけ、
都会の実習と試験のために、私を送り出してくれた。

二週間の缶詰状態。
その間、現場は人手不足のまま、必死で回されていたはずだ。

頭の中にあったのは、ただ一つ。

「絶対に、不合格で帰るわけにはいかない」

「不合格では帰れない」という、無言の圧

誰かに言われたわけじゃない。
でも、勝手に背負っていた。

期待。
責任。
申し訳なさ。
恩。

それらが全部混ざって、
「落ちること=裏切り」のように感じていた。

高校入試も、自動車免許も、バイクの試験も緊張はした。
でも、あのときのような“かーっ”という状態にはならなかった。

違いは、たった一つ。

あの国家試験だけは、
自分のための試験ではなかった。

はじめ!の合図で、問題ではなく“人”を見てしまった

最初の問題は、デファレンシャルギヤの数を数えるような、
算数に近い内容だったと思う。

本当は、落ち着いて考えれば対応できたはずだ。
少なくとも、見たことのあるタイプの問題だった。

でも、頭が動かなかった。
思考が止まり、焦りだけが増えていく。

パニックだった。

能力の問題ではない。
知識の問題でもない。

「人を気にした瞬間」、試験は別物になっていた。

劣等感ではなかった。背負いすぎただけだった

結果は、不合格。

当時は、
「自分はダメなんだ」
「劣等感だ」
そう思った。

でも今なら、はっきり分かる。

あれは劣等感ではない。
弱さでもない。

背負いすぎただけだった。

期待を背負った瞬間、人は自分でいられなくなる。

責任感の強い人ほど、
「失敗してはいけない」という思いが先に立ち、
本来の冷静さや集中力を、自分で奪ってしまう。

期待は、人を支えるが、逃げ場をなくすと凶器になる

応援や期待は、人を支える。
でも同時に、逃げ場をなくすと、人を追い詰める重さにもなる。

あの不合格は、痛かった。
でも、あの経験があったからこそ、今は分かる。

人は、責任感があるから壊れることもある。
そして、壊れかけた経験をした人間だけが、
人の弱さに、少し優しくなれる。

人生で一度きりだった、あの「かーっ」とした感覚。
あれは失敗ではなく、
心の限界を教えてくれた、忘れられない体験だった。

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