野球の正面ライナーと、人に気を使いすぎる俺

気づき
野球の正面ライナーと、人に気を使いすぎる俺

野球を見ていて、何度も出くわす場面がある。

打者の鋭いライナー。「センターへ抜けるライナー!」と思った瞬間、「あっとピッチャーライナー、残念」。実況の声が裏返り、打者は塁を空回りしたまま戻ってくる。あの打球は確かに芯を食っていた。それなのに、なぜピッチャーの正面なんだ。

「今日は運が悪い」で片づけてしまえばそれまでだ。でも、同じことが何度も続くと、「これは偶然じゃないんじゃないか」という気がしてくる。

偶然じゃなく、本能なんじゃないか

ある日、ふと思った。

人は、人と向き合うように、助け合うように生きてきた歴史がある。

何万年と、人は人の顔を見て、人の声を聞いて、人の手を借りて、生き延びてきた。人のいる方向を見る、人のいる方向に返す――それが、体の奥に染み込んでいるんじゃないか。

打者がボールを打ち返す瞬間、本人は意識していないだろう。でも、無意識のどこかで「人のいる方向」に返してしまっている気がする。たまたま選手の間を抜けているのであって、本当は人に向かって打ち返している。

ピッチャーライナーは偶然じゃない。人と向き合う習性が、ボールをそこへ運んでいる。

そう考えると、続くときに続く理由も、少し見えてくる気がする。

ラケット種目をやっていた頃

俺は学生時代、テニスをやっていた。卓球やバドミントンも、遊び程度だが素人よりは上手かったと思う。ラケットの扱いに、少し自信がある。

その感覚で言えば、相手の打球を返そうとする瞬間、体は反射でラケットを出す。考える前に、本能が先に動く。

そのとき、たぶん体は「相手のいる方向」を見ている。狙ってネットインに当てたり、エッジに当てたりはできない。でも、続くときには続く。

野球の守備も同じだろう。スタートの一歩、腰の向き、グラブを出す高さ。最終的には感覚や経験値に支配されている。その無意識の選択が、打者の本能的な「人へ向かうスイング」と符合したとき、ボールは吸い込まれるように正面へ飛ぶ。

説明のつかなかった瞬間

そういうことを思うと、自分の昔の記憶が浮かんでくる。

中学のとき、ノックを受けていてフライを見失ったことがある。打球の行方がわからず、闇雲にバックして体勢を崩しながら振り向いた。そのとき、グローブの中にボールが収まっていた。自分でも何が起きたのか、いまだに説明できない。

高校でテニスをやっていた頃、スマッシュの練習でラケットの芯に十回近く連続で当たったことがある。「いい音」がしていた。自分にしてはできすぎだった。

ソフトボールで、右利きなのに左で打席に立ったことがある。あの一打のときだけ、ボールがスローモーションのように見えた。芯で捉えてヒットになった。

意識より先に体が動いていた、と感じる瞬間が、いくつもある。

あれも、たぶん同じことだ。意識ではなく、体に染みついた何かが先に動いていた。

自分の人生に重ねてみる

そして、ふと思う。

俺は、人に気を使いすぎるところがある。

必要以上に相手の顔色を見る。余計な心配をする。配慮しすぎて、自分の言いたいことを飲み込む。

定年まで勤めた会社でも、何度もそうだった。妻の体調が悪いとき、休まずに会社に行った。「現場に迷惑がかかる」と思った。今となっては、それは管理者の仕事だったと分かる。だが、当時の俺は人に向かってばかり気を遣っていた。

勝負の場面では、こういう習性は不利になる。自分の打球を打ちたいのに、つい相手のいる方向に返してしまう。

でも、それを欠点だとも、間違いだとも、今は思わない。

人へ向かう、それも一つの生き方だ

人へ向かうように体が動くのは、悪いことじゃない。

何万年もそうやって人と人が助け合ってきた、その記憶が、たまたまピッチャーライナーになって表に出てくる。たまたま俺の人生では「気を使いすぎる」という形で出てくる。

野球の打者と俺は、根っこのところで同じことをしている、のかもしれない。

無意識に、人のいる方向を見る。

無意識に、人のいる方向へ打ち返す。

それは「偶然」と呼べばそうだし、「本能」と呼べばそうでもある。理屈で測りきれる話じゃない。

ただ、そう考えると、ピッチャーライナーで悔しがる打者を見ても、なぜか少しだけ温かい気持ちで眺められるようになる。

「お前も、人に向かって打ち返してたんだな」と。

説明できないことを「ある」と言える人でありたい

説明できないものを「ある」と言える人と、「気のせいだ」で済ませる人がいる。

野球を見ていて正面ライナーが続く日には、つい前者でありたいと思う。

そして、自分が人に気を使いすぎることにも、少しの優しさを持てるようになる。

それも、染みついた習性なのだ。何万年も人が人と向き合ってきた、その積み重ねの一滴なのだ。

そう思える人は、自分にも、他人にも、少し優しくなれる気がする。