「親近感」という言葉は、どうも軽く使われすぎている気がする。
「なんとなく気が合いそう」「初対面なのに話しやすい」――そんな曖昧な感覚を、ぜんぶこの一言で片づけてしまう。
俺は六十六歳。長く生きてきて、思うことがある。
――気の合うやつなんて、ほとんどいねーぞ。
一万人の街の、近すぎる距離
俺が住んでいるのは、人口一万人ほどの小さな街だ。
ある日、不思議なことが分かった。親友の嫁さんが、俺の母親のいとこの子にあたる。隣の家とも、辿っていけば遠縁だという。
田舎というのは、こうやってどこかでつながっている。下手なことは言えない。悪口ひとつ、すぐに本人の耳に入る。
ただ、これは「親近感」とはちょっと違う。距離が近いだけだ。血縁が近いから親しい、というのは、感情ではなく事情だ。
気の合うやつなんて、ほとんどいねーぞ
現役で四十年、現場で人を見てきた。退職してから、地域の集まりや組織にも顔を出した。
そのなかで、心の底から「こいつ、いいなあ」と思った人間は、正直、ほとんどいない。
最初は「気が合うかな」と思っても、しゃべっていくうちに、何かが違ってくる。価値観のズレ。本音の出し方の違い。一緒にいて疲れる感じ。
その瞬間、頭の中でスイッチが切れる。
俺はこれを「親近キャンセル」と呼んでいる。最近、「風呂キャンセル界隈」という言葉を耳にして、それに倣って自分で作った言葉だ。
鍵だけ渡して、書類は持ったまま
象徴的な体験がある。
ある組織で、引き継ぎがあった。会館の鍵と、規定書類。この二つは、セットで次の人間に渡すものだ。
ところが、ある人間は鍵だけを渡して、書類は自分で持ったままだった。
それを知ったとき、なんとも言えない気持ちになった。
いいやつだと思っていたんだが、残念。
引き継ぎの仕方には、その人間の中身が出る。次の人が困らないようにと考えるか。自分の手柄を手放したくないと考えるか。書類一枚、鍵ひとつの扱いに、それが出てしまう。
その瞬間、俺の中で「親近キャンセル」が起きた。
ある日、気づいた
そんなことを繰り返しているうちに、ある日、気づいた。
――気が合うってのは、性格や価値観の話じゃないんだな。
俺はずっと、「性格が似ている人」「価値観が合う人」を探していた。だから、いない、と感じていた。
そうじゃなかった。
気が合うのは、興味の方向が同じか、近い人だ。
自分がやったことのない世界で、何かに夢中になっている人。色んな職業を経験してきた人。色んな失敗を語れる人。
そういう人の話を、ただ聞いてみたい。雑談がしてみたい。一緒に遊びたい、と言ったらおおげさかもしれないが、それに近い。
性格が似ているとか、価値観が同じとか、そんなことよりも――「あの人の話を聞いてみたい」と思える。
それが本物の親近感じゃないか。
鍵だけ渡しても、扉は開かない
性格で気が合う人を探そうとすると、なかなか見つからない。価値観で測ろうとすると、ズレを感じる場面のほうが多い。
でも、興味の方向で見ると、世界が変わる。
「あの人の話、聞いてみたいな」――そう思える瞬間が、たまにある。年に何度か、そういう人と出会う。
血のつながりよりも、長い付き合いよりも、その一瞬の「興味の重なり」のほうが、よほど親近感に近い。
鍵だけ渡しても、扉は開かない。
書類も、誠意も、興味も――揃って初めて、扉が開く。
それでも、人と関わるのをやめない
六十六歳になって、思うことがある。
気の合うやつを探すのは、もうやめた。
その代わり、興味のある場所に、自分から足を運ぶ。やったことのない世界の話を、聞きに行く。
そこで誰かと出会えるかもしれない。出会えなくても、それはそれでいい。
親近感は、待っているだけでは生まれない。性格や価値観で測るものでもない。
あなたは今、誰かに「話を聞いてみたい」と思えているだろうか。
そう思える相手が一人でもいるなら、それが本物の親近感かもしれない。

