五年ほど前、成人した息子のスーツをつくるために、一緒にお店へ行った。
「もう大人なんだから一人で行けばいいのに」と思わなくもなかったが、成人式や礼服の準備という節目でもある。親としては、やはり少し特別な気持ちになるものだ。
採寸の場面で、店員さんが息子の肩幅をそっと見た途端、こう言った。
「お客さん、野球やってました?」
思わず笑ってしまった。まさにその通り、学生時代はずっと野球部だったのだ。
店員さんによると、肩幅がしっかりしている人は、野球や水泳をやっていたケースが多いという。身体の特徴から過去の活動を読み取るその一言に、プロの「目」を感じた。
俺にも「目」があった
その瞬間、ふと自分のことを思い出した。
製造の現場にいた頃、基板を見ただけでだいたいのサイズを当てるのが得意だった。「これは○センチ×○センチくらいだな」と目測で言い当てると、たいてい当たっていたものだ。
毎日の積み重ねで、自然と「目が肥える」というのは、こういうことなのだと思う。
それに似た経験がもうひとつある。
昔、よく通っていたジーパン屋の親父さんは、俺のウエストをひと目見ただけで「○センチだね」と言い当ててしまう人だった。実際に測ってもほとんど誤差がない。長年、無数の人の体型を見てきた観察力が、その「目」を育てていたのだろう。
店員さんの肩幅に関する一言に驚きつつも、内心「わかるなぁ」とうなずいていた。
目だけじゃない、体で気づくこともある
観察というと、目の話だと思っていた。
だが、よく考えてみると、目だけじゃない。
俺は晩酌のつまみに、お菓子をよく食べる。袋を開けて、半分ほど食べたら、自分なりの閉じ方で袋をしまう。輪ゴムだったり、口を折り返してクリップをかけたり。やり方は決まっている。
ある日、袋を開けようとして、気づいた。
閉じ方が、俺のやり方じゃない。
――嫁が、つまみ食いしたな。
嫁は食いしん坊で、俺のつまみを時々こっそり食べる。本人は隠したつもりらしいが、袋の閉じ方が違うから、すぐ分かる。
「お前、また食ったな」と言うと、笑ってごまかす。
こういうのも、観察眼のうちなんだろう。日常の中で、いつもの形が崩れていることに気づく。製造現場で工程の異変に気づくのと、根は同じだ。
もうひとつ、こんなこともある。
車を運転していて、なんとなく「いつもと違う」と感じる瞬間がある。ハンドルが少し取られる気がする。
降りてタイヤを見ると、空気圧が低い。
そんなことが何度かあった。これは目の話じゃない。手と腰で感じる違和感だ。
観察眼は、目だけの話じゃない。五感のあちこちに、長年で育った「いつもとの差」を察知する力が宿っている。
靴屋、床屋、それぞれの「目」
昔の靴屋さんを思い出す。
靴の減り方を見て「あなた、歩くとき右足に体重がかかってるね」とか「足の長さが微妙に違う」と、まるで医者のように言い当てるおじさんがいた。靴底は、歩き方や体の癖が少しずつ現れる「手がかり」のようなものだ。
床屋でも似たような経験がある。
髪質を触っただけで「あなたは髪が硬いから、短くすると立ってしまってセットが大変だね。でも、その髪ならハゲる心配はあまりないよ」と言われた。ひげの硬さからも髪質を見抜くなど、長年の経験が育てた目に感心した。
それぞれの現場には、それぞれの「目」がある。
観察される立場から、観察する立場へ
この日のスーツづくりでは、親として成人した息子に付き添う立場だった。
かつては、俺が息子を観察し、導く側だった。だが今は、店員さんや社会の人たちが息子を観察し、見立てていく。
その様子を隣で見ていると、少し不思議な気分になった。
「付き合わされた」一日だったはずが、気づけば自分も「観察される側」になっていたのかもしれない。
目は、手と同じくらいの道具だ
スーツ屋の店員、ジーパン屋の親父、靴屋のおじさん、床屋の職人――。
日常の中で出会う「観察のプロ」たちは、俺たちが気づかない細部を見抜いている。
そして、俺自身も知らず知らずのうちに、「観察する側」の目を持っていた。
思えば、俺も四十年間、製造現場で「見る」ことを仕事にしてきた。不良品を見つける目、工程の異変に気づく目。スーツ屋のおじさんとは畑が違うが、「観る」ことで飯を食ってきた仲間みたいなものだ。
プロの目は、どの業界にもある。そしてその目は、現場でしか磨かれない。
目は、手と同じくらいの道具なのだ。

