母は昭和一桁生まれだ。
尋常小学校を出てすぐ、裕福な家に女中奉公に出された。その家の子供たちから下の名前を呼び捨てにされながら、泣いて耐えていたと、ぽつりと話してくれたことがある。
その母の口癖が、こうだった。
「具合が多少悪くても、学校も会社も行くもんだ」
理屈ではない。「行くもんだ」だ。
その背中を見て育った私は、「真面目に出勤して、ちゃんと務めるのが当たり前」という価値観を、知らないうちに身体に染み込ませていた。
「皆勤手当」のあった時代
社会に出て、最初は少人数の町工場(こうば)に入った。
「こうば」というのは、工場(こうじょう)とは呼ばれない、中小・零細の独特の空気を含んだ呼び方だ。そういうところには、そこ独自の考え方がある。
辞めたあと、300人規模の会社に移った。そこに「皆勤手当」という制度があった。
休まずに出勤すれば、月に3000円だったか5000円だったか、それくらいの手当がついた。金額は今となっては曖昧だ。要するに、はした金だ。
「休まないで、ありがとうな」
そういう手当だ。
冷静に考えれば変な話だ。会社に来るのは契約どおりの義務であって、「来てくれてありがとう」と金を払う必要などない。だが、当時の自分はその違和感に気づかなかった。むしろ「休まなければ得をするのか」と素直に受け取っていた。
その後、大手の協力工場に移った。同じく300人規模だが、空気はまったく違っていた。
よく休む奴がいた
その会社に、よく休む奴がいた。
具合が悪い。用事がある。理由はその都度違ったが、とにかく頻繁に休む。
「あ〜、なんで、こいつはこんなに休んでばかりいるんだ」
私は内心、そう思っていた。母の背中で育った人間からすれば、信じられない働き方だった。
ところが、そいつは嫌な奴ではなかった。むしろ逆だ。
人たらしだった。みんなから好かれていて、休んでいても誰かが「あいつ、どうしてる?」と気にかけている。職場の中心にいた。
休まないで真面目に出勤している自分のほうが、地味な存在だった。
40年走ってきて、66歳の今
40年走ってきた。
定年までの間、ほとんど休まなかった。具合が多少悪くても、母の言葉のとおり、行くもんだと思って行った。
皆勤手当も、その先の評価も、確かに少しは得たかもしれない。
だが、66歳になった今、ふと思う。
あいつは、休んでいた。自分のために、ちゃんと休んでいた。それでいて、人に好かれていた。
自分は、休まなかった。犠牲を払うのが当たり前だと思って、払い続けた。
何を得たんだろう。
皆勤手当の数千円か。「真面目だ」という評価か。母の教えに背かなかったという、ぼんやりした安心感か。
今は、自分のバカさ加減に呆れている。なんでもっと、自分を大事にしてやらなかったのか。
自分で自分を叱りつけてやりたい。
妻に。子供に。その時にしかできなかったことが、できないまま過ぎていった。それが、悔やまれる。
たとえば、妻の体調が悪かった時のことだ。
休んで看てやれなかった。一人作業の現場で休めば、他人に迷惑がかかる――そう思い込んでいた。結局、妻は実の姉に頼んだ。
最低の夫だと思う。
そもそも、その「迷惑がかかる」という心配は、現場の人間がするものじゃない。作業の段取りを組み直すのは、管理者の仕事だ。それに気づいたのは、ずっと後になってからだった。
会社のために、自分が我慢する。家族が困っていても、会社を優先する。母の「行くもんだ」を律儀に守って、自分の家族を二の次にしていた。
過去には戻れない。
ただ、定年後の今は、好きなことをして、満喫している。
せめて、それくらいは、自分に返してやりたい。

