「居場所」という言葉は、どうも大層な響きがする。
サードプレイスがどうの、安全地帯がどうの、と本やテレビでよく語られるが、俺にはそういう難しい話はピンとこない。
ただ、六十六歳までやってきて、ひとつ思うことがある。
居場所って、要するに気を使わなくていい場所のことなんでねーか。
現役時代、社内には居場所がなかった
四十年、製造業の現場で働いた。
その四十年、正直、社内に本当の居場所と言えるところはなかった。
ずっと、どこか緊張していた。上司の機嫌、納期、ライン、不良品、新人教育――気を抜ける時間がほとんどない。
居場所がなかったわけじゃない。喫煙所も、休憩室も、食堂もある。でも、そこに行ったって、結局誰かと顔を合わせる。気が抜けるわけではなかった。
趣味の話くらいはできた
中には、趣味の話ができる相手もいた。
音楽、ギター、映画――そんな話を二言三言、交わせる人間はいた。
ただ、現場が違ったり、同じ現場でもゆっくり話す時間なんて取れなかったりで、深まらなかった。
会社というのは、そういうものだ。仲良しクラブじゃない。やることをやって、家に帰る場所だ。
正直に言えば、会社は嫌だった。毎朝、行きたくないと思いながら通っていた。
会社で気が抜ける時間は、車の中だけだった
そんな日々のなかで、会社時間で気が抜ける時間があった。
帰り道、車を運転している、あの十数分。
ビートルズを流して、ハンドルを握る。誰にも気を使わない。誰にも何も言われない。次に何を言われるかと身構えなくていい。
ただ走って、ただ聴いている。
家に着けば、家もまた居場所だった。だが、家に着くまでの会社時間が、ずっと緊張だった。
退職して、変わった
仕事を辞めて、家にいる時間が一気に増えた。出不精な性格には合っていた。せいぜい酒とつまみを買いにスーパーへ行くくらいで、嫁との買い物も週に一回程度だ。
そして気づいた。
家が、もっと居場所になっている。
正確には――嫁といても、気を使わなくていい。
隣にいても気にならない。時々うるさい日もあるが、それくらいだ。嫁のほうも、こちらに気を使っている様子がない。
これは、いい意味で救われている。
相性って何だ?
ここで、ふと考える。
相性って、何なんだろう。
うちの嫁は、正直、家事のすべてが完璧というわけじゃない。だらしなく、片付けが苦手だ。これがちゃんとできれば、最高の嫁なんだが――そこは難点として残っている。
それでも、家にいられる。気を使わなくていい。
もしこれが鬼嫁だったら、家にすら入れなかったと思う。買い物以外、ずっと外にいたかもしれない。
つまり、相性ってのは、欠点も含めて飲み込める「気の使わなさ」のことなのかもしれない。
完璧な相手じゃない。だが、一緒にいて疲れない。
それで十分なんだと、最近は思う。
居場所は、人と場所のセットでできる
考えてみると、居場所は場所だけじゃ成立しない。
人と場所のセットだ。
現役時代、車の中という「場所」が居場所だったのは、そこに気を使う相手がいなかったからだ。
退職後、家がより深い居場所になっているのは、嫁という「気を使わなくていい人」がそこにいるからだ。
どんな立派な家でも、気を使う相手と暮らしていれば、居場所にはならない。
どんな狭い車の中でも、気を使わない時間が流れていれば、それは居場所になる。
家が居場所にならない人へ
ここまで書いて、気づいたことがある。
家が居場所になっていない人もいるはずだ。配偶者と気を使い合っている人。家族と顔を合わせるのがつらい人。一人暮らしで家が静かすぎる人。
そういう人に、俺は何も助言できない。考え方も知らない。
ただ、振り返って言えるのは――俺の現役時代、家と、帰り道の車の中が居場所だったかもしれない。十数分の運転時間。誰にも気を使わない、音楽を流すあの時間。
それでも、ないよりはずっとよかった。
居場所って、それだけでいい
六十六歳。今ごろになって、ようやく気づいた。
居場所って、大層な言葉でなくていい。
「ここにいて、気を使わなくていいな」――そう思える場所と人を、ひとつ持っているだけで、人は呼吸できる。
サードプレイスでも、安全地帯でもない。気を使わなくていい場所。それだけだ。
あなたは、気を使わなくていい場所と人を、持っているだろうか。
ひとつでもあるなら、それは思っているより、ずっと大切な財産かもしれない。

