「あのガードレール、長すぎるから切ってくれ」
そう言われたとき、俺は一瞬、言葉が出なかった。
国道沿いの橋に、歩道と車道を分ける鉄の柵がある。二段の、よくあるやつだ。俺は毎日そこを通る。町内会の役員をしているから、地域の道はだいたい頭に入っている。だが、その柵を「長すぎる」と思ったことは、一度もなかった。
言ってきたのは、町内会の年配の方だ。俺が庶務をやっているのを知っていて、わざわざ言いに来た。
本人も分かっている。「まあ、あれは県か市の管轄だろうけどな」と、自分で言うのだ。半分は諦めた顔をしている。切ってもらえるとは、たぶん思っていない。
それでも、言いに来る。
正直に書く
腹が立った。
また始まったか、と思った。この人が思いつきを言ってくるのは、初めてではない。言われるたびに、コケにされている気がする。俺なら段取りを考え、管轄を調べ、できるかできないかを確かめてから口を開く。その手間を全部飛ばして、思いついたことをそのまま、こっちに投げてくる。
正直、関わりたくない。
柵は「何もない日」のためにある
念のため書いておくと、あの柵は切れない。橋の上の歩行者を守る安全の柵だ。
「今まで何も起きていないから要らない」というのは、逆だ。柵は、何もない日のためにあるんじゃない。車が突っ込む、誰かがふらつく——その一回のためにある。何もないのは、柵が効いている証拠だ。
役所だって、そう簡単には動かない。事故が実際にあったか。危ないと感じる住民が何人もいるか。正式な要望が出ているか。それが揃って、やっと検討の入り口に立つ。一人の思いつきでは、土俵にも上がらない。上がってはいけない。
40年、工場の現場で設備を守ってきた。安全のためにあるものを「邪魔だから外せ」と言う人間を、俺は信用しない。外していいかどうかは、思いつきではなく、確かめた者だけが口にできることだ。
反面教師にする
ただ、腹を立てたままで終わらせても、こっちが損をするだけだ。だから、こう考えることにした。
あの人は、反面教師だ。
確かめずに、思いつきで、人に物を言う。歳をとると、そうなりやすいのかもしれない。出番が減って、確かめる気力も減って、でも何か言いたい気持ちだけは残る。本当のところは分からない。俺が勝手にそう想像しているだけだ。
だが、一つだけはっきりしていることがある。俺も、いつかああなるかもしれない、ということだ。
六十を過ぎて、役職も減った。頼られる場面も減っていく。この先、確かめる手間が億劫になったとき、俺も思いつきを誰かに投げつける側に回るかもしれない。
ああはならない。言う前に、確かめる。それだけは守ろうと決めた。あの人から学んだことが、一つだけあるとすれば、それだ。
結局、どうしたか
「聞くだけ聞いておきます」
そう言って、終わりにした。切りもしないし、役所に上げもしない。それでよかったんだと思う。
もし、また食い下がってきたら、こう聞くつもりだ。
「みんなも、そう思ってますか?」
一人の思いつきなのか、みんなの声なのか。それを分けるのは、言った本人の仕事だ。
と、偉そうに書いたが
正直に言えば、自信はない。
次にまたあの人が何か言いに来たら、俺はきっと、またイラッとする。関わりたくない、と思う。冷静に「聞くだけ聞いておきます」と言えるかどうか、その場になってみないと分からない。
わかっていることと、できることは、別なのだ。学んだつもりでも、その場になれば揺れる。人間なんて、そんなものだと思う。
それでも、こうして書いておけば、次はほんの少しだけ、ましな顔で聞けるかもしれない。
それだけのことだが、毎日あの橋を渡るたびに、少し考える。
