男子よ、床屋へ行け。——と思っていた60代が、初めて美容室に行った

違和感

散歩していたら、男が美容室から出てきた。綺麗にセットされていた。

信じられなかった。なんで床屋じゃなくて美容室に行くんだ。ひげも産毛も剃ってくれないのに。おねーちゃん目当てだろう、と思った。

俺の世代では、男は床屋である。美容室は女の行く所だ。行ってみたい気はある。だが恥ずかしい。

だから確かめに行った。生まれて初めて、美容室に。60代である。払ったのは4,180円。

答えを先に書く。4,180円払って分かった違いは3つだ。頭を洗わない。ひげを剃らない。話す時間が短い。ただしこれは俺が行った1軒の話である。美容室が全部そうだとは言わない。値段は床屋と同じくらいだった。それでも中身は、別の商売だった。

予約の電話は、嫁に頼んだ。嫁が通っている店だ。いきなり自分でかけるのは、気が引けた。

予約で回っている店だった

朝9時の予約だった。

正直に書く。田舎の美容室だ。どうせ暇だろうと勘繰っていた。予約なんて形だけだろう、と。

違った。予約で回っている店だった。

案内された席には、洗う台が無かった

案内された席に座って、まず目についたのはこれだ。

鏡だけ。床屋にある、あの倒れて頭を洗う台が、俺の席には無かった。

切る椅子と洗う台がひと組なのが、俺の中の「散髪」だった。

書いていて、あとから引っかかった。髪を染める人は、どうするんだ。流さないと終わらない。店のどこかには、あるのかもしれない。

「どうしますか」——答えはいつも同じ

「どうしますか」と聞かれた。これは床屋でも毎回聞かれる。答えもいつも同じだ。

「横と後ろは短く。前と上は、あまり切るな」

上のあたりが薄いからである。これは店が変わっても変わらない。

頭は洗わない。ひげも剃らない

切り終わって、仕上げの段階で言われた。

「頭は洗いませんよ」

代わりに何をしたか。ドライヤーの風で、切った毛を飛ばしていた。

床屋なら、あの台に頭を倒して洗ってもらう。その工程が、無い。ひげも産毛も剃らない。顔には何もしない。

美容室で洗ってもらえなくても、女の人は困らない

先に書いておく。切るのは下手じゃなかった。さすがプロだ。金を払って、ちゃんとしたカットをしてもらった。文句を言っているのではない。

引っかかっているのは、そこじゃない。洗ってもらえない。ひげも産毛も剃ってもらえない。

それで、誰も困っていない。

俺にとっては、切った後に洗ってもらうのは床屋の一部だった。切ることと洗うことが、ひとつのものだった。

だが嫁は、それを知らずに何十年も過ごしている。知らなければ、無くても困らない。

女にカミソリが要らないのは「ひげが生えないから」だった

帰ってから、嫁に聞いた。「なんで女はカミソリがいらないんだ」

「ひげが生えないからじゃない?」

そりゃそうだ。言われてみれば、それだけの話だった。剃るものが無い人の店に、カミソリは要らない。無いのではなく、要らないのだ。

洗わない件のほうは、聞き忘れた。シャンプーは別料金なんだろうか。それも分からないままだ。

洗う店もあるらしい。だが嫁は、洗ってもらったことが一度も無い。

嫁は通っている店だ。それでも、一度も無い。つまりこの店では、洗わないのが普通なのだ。俺が特別だったわけではない。

美容室というものが全部そうなのかは、俺は知らない。書けるのはここまでである。

話はした。だが、長くはなかった

もう一つ、床屋と違ったことがある。

床屋は、切って、剃って、洗う。その間に、話をする。誰も急がない。

美容室でも、話はした。だが「切る」に絞られている分、その時間は切っている間だけだ。話の途中で、次の予約の人が入ってきた。そこで終わりである。

床屋と美容室、俺が行った2軒のちがい

一般論ではない。俺が40年通った4つの床屋と、今回行った美容室1軒の話である。美容室にも洗う店はあるらしい。

俺が行った床屋俺が行った美容室
頭を洗うありなし(ドライヤーの風で毛を飛ばした)
ひげ剃りありなし
産毛剃りありなし
予約あり/なし要る
話す時間ある(洗う・剃るの間ずっと)ある(切る間だけ)
値段だいたい同じくらい4,180円

4,180円は、普通の相場だ

高いとは思わない。床屋でも、このくらいは払う。

だからこそ分かった。値段が近いから同じものだと思っていた。そもそも別の商売だった。

支払いは、切り終わってから

会計は後払いだった。先に払う店ではない。

払い方はこうだ。町の商品券を4枚(4,000円分)と、現金200円。お釣りが20円。

この商品券は、町が出しているものだ。1万円で1万1,000円分が買える。町の店で使う券だ。

これは町の店を助けている行為なんだろうか。それとも、俺が1,000円得しているだけなんだろうか。

カードが使えるのかは聞いていない。田舎の店だから現金だろうと思い込んでいた。そのくらい、聞けばよかった。

あの男は、何を買っていたのか

散歩で見た、あの綺麗にセットされた男。

あいつは「切る」を買っていた。剃らない、洗わない。切ってセットしてもらう。それだけを買っていた。

俺が床屋で買っていたのは、切って、剃って、洗ってもらう時間だ。どっちが正しいという話ではない。

男子よ、床屋へ行け——とは、もう言わない。買っているものが違うだけだった。

おねーちゃん目当て説は、否定しない。これが、60代の初体験である。