最初は、グラスの生ビールだった。
うちの長男が、久しぶりに帰ってきた。それで、ちょっとした飲み会になった。
場所は、義姉が切り盛りしている店だった。義姉というのは、俺の実の兄の嫁のことだ。兄はもう何十年も前に婿に出ていて、今日この場にはいない。だから店にいるのは義姉のほうだ。昼は喫茶店、夜はときどきバーになる、そういう店だ。
顔ぶれは、俺と妻。久しぶりに帰ってきた長男。友達夫婦。それから甥っ子夫婦――俺にとっての甥っ子といっても、四十代のおじさんだ。義姉と兄の子供たちだ。
久しぶりに顔を合わせて、酒を飲む。
「ビールはうまい、発泡酒はちょっとなぁ」
グラスの生ビールを置いた頃、誰かが言った。
「やっぱりビールはうまいよな」
「発泡酒はちょっとなぁ」
そう言って笑う人もいる。
そのやり取りを聞きながら、俺は心の中で思った。
――わかってんのか、お前、味。
口には出さなかったが
口には出さなかったが、本当はもっと続きがあった。
お前さ、タバコ吸ってるくせに。舌の感覚もう半分おかしいくせに。何通ぶってんだ。
ラベル隠して並べたら、たぶん当てられないだろうに。
そう思っていた。
ただ、口には出さない。
ツッコミすぎると、大人の喧嘩になる。酒が入っているから、なおさらだ。酒飲んでの口論ほど、めんどくさいものはない。後味も悪い。
だから、「ふ〜ん」で終わる。
それが、六十六歳までやってきた俺なりの作法だ。
生ビール、切れた
途中で、生のおかわりを頼んだ。
すると店の奥から声がした。
「あっ、生ないです」
売り切れだったのか、もともと少なかったのか。そこは正直よく覚えていない。
とにかくその一言で、テーブルの全員が声を上げた。
「え~、ありえね~」
久しぶりの飲み会で、まさか生ビールがなくなるとは。
そのときだった。店の奥のほうから、別の声が聞こえてきた。
「ありえねーだろ」「ばかじゃねーの」
奥で騒いでいるのは、その四十代の甥っ子たちだ。母親(義姉)の店で、生ビールがなくなって、裏で野次を飛ばしている。
本当に怒っていたのか、ただふざけていたのか。それも、よく覚えていない。
仕方なく、そのあとは缶ビールや発泡酒になった。
「やっぱりビールはうまい」
そこでまた、誰かが言う。
「やっぱりビールはうまい」
俺は缶を見ながら思う。
本当にそこまで違いがわかって飲んでいるのだろうか。
もしラベルを隠して、コップに入れて出されたら――。
ビール。発泡酒。ノンアルコール。
並べられて、本当に言い当てられるのだろうか。
ラベル隠したら、当てられるか
正直に言う。俺は自信がない。
ビールでも、普通にうまい。発泡酒でも、普通に飲める。ノンアルでも、もしかすると分からないかもしれない。
そう考えると、「ビールはうまい」と言い切る言葉も、どこまで本当なのか分からなくなる。
味で飲んでいるのか。雰囲気で飲んでいるのか。それとも、ラベルで飲んでいるのか。
その違いは、案外あいまいなのかもしれない。
ラベルで飲んでいる
世の中、ラベルで飲んでる気がする。
「プレミアム」と書いてあれば、それだけで特別に感じる。
高い店で食べれば、なんとなくうまい気がする。
有名なメーカーのものは、それだけで安心して飲んでしまう。
ビールも、たぶん同じだ。「これはあの有名なプレミアムビールだ」と思って飲むから、うまく感じる。
ラベルを剥がされて、銘柄を伏せて出されたら、果たしてどうだろう。
ただ、思い込みで楽しめるなら、それはそれでいいとも思う。
雰囲気で飲んで、楽しい時間が過ごせれば、人生それで十分だ。
ただ、わかってる顔して飲んでる人間に、心の中で「わかってんのか」とツッコみたくなることはある。
そういう本音は、口には出さない。「ふ〜ん」で流す。
酒の席ってのは、こんなもんだ。
結局、あの夜がうまかった
あの日、何を飲んだか正確には覚えていない。
ビールだったのか、発泡酒だったのか。途中からは地元の焼酎だった気もする。
でも、あの夜は楽しかった。それだけは覚えている。
長男がいて、甥っ子がいて、妻がいて、友達がいた。義姉の店で、奥から「ありえねーだろ」と聞こえてきて、みんなで笑った。
酒の味は、たぶん「誰と飲むか」で決まる。
グラスの中身が何であっても、隣にいる人と笑えるなら、それでいい。
ラベルがビールでも、発泡酒でも、ノンアルでも、関係ない。
高い酒よりも、いい時間のほう
六十六まで生きてきて、これだけは思う。
高い酒よりも、いい時間のほうが、うまい。
もしまたあの店で飲む機会があったら、今度は最初から焼酎にしようかと思っている。どうせ途中から何を飲んでいるかわからなくなるのだから、最初から好きなものを飲めばいい。
それで、誰かが「ビールはうまい、発泡酒はなぁ」と言い始めたら、俺はやっぱり心の中で同じことを思うのだろう。
――わかってんのか、お前、味。
そして口には出さず、「ふ〜ん」と笑って、自分の焼酎を飲む。
たぶん、それが一番うまい飲み方だ。

